( 萌えよ剣 4 )2013年06月17日

 ここに『是川遺跡』という本がある。中央公論美術出版から昭和41年(1966)に発行、著者は慶應大学文学部教授の清水潤三という先生だ。青森県は八戸市にある縄文晩期の遺跡発掘調査についてまとめたものだ。

 その本の口絵写真最後ページに「飾り太刀」と題した反りの入った太刀のイラストがある。図版の説明は「飾り太刀 鞘入りの木刀の形をとるが、柄頭と鍔の部分を球形に作り、C字状の模様を彫刻している。全体に赤漆を塗り、大変美しい。鉄製飾り太刀を模倣したとするのが一番すなおな解釈ではあるまいか。…(略)…石器によって作られたものか、金属工具によるものか、疑いを深める遺物である」


清水潤三『是川遺跡』より 


 一方、以下の写真は奈良県天理市東大寺山古墳より出土した「花形飾環頭太刀」。鉄製太刀で、柄の先に青銅製の飾り環頭が装着されている。


画像提供:東京国立博物館(http://www.tnm.jp/ 


 この太刀には金象嵌で「中平□年 五月丙午 造作文刀 百練清釗 上応星宿 下辟不□」と彫られており、「中平」とは中国後漢末の霊帝の年号(184190)だそうだ。日本でいえば『魏志倭人伝』に記された倭国乱が終結した時期に当たる。

 ちなみに東大寺山古墳は4世紀後半頃の遺跡とされている。応神天皇の時代か。

 

 これと似たような太刀を模した木製品(是川の方が精巧に見える)が、はるか以前の縄文晩期の八戸から出土しているのはどういうことなのだろうか。

 考えられるのは、

■ 樺太、北海道を通って大陸の民がやってきて、友好の証しとして自分たちの太刀を模した木刀を是川の縄文人にプレゼントした。何に使うのか分からないものの、とりあえずもらっておいた。

■ 樺太、北海道を通って大陸の民がやってきて、自分たちの太刀を是川の縄文人に見せびらかした。縄文人にとって非常に珍しいモノだったので、何に使うのかは分からなかったが、とりあえず模写した。

■ 南の弥生人と接触する機会があって、彼らが持っていた太刀を模した木刀をプレゼントされた。役に立ちそうもないのでその辺におっぽらかしておいた。

■ 南の弥生人と接触する機会があって、彼らが持っていた太刀が非常に珍しいモノだったので、思わず模写した(時代が合わないけれど)。けど、何の役にも立ちそうにないのでそのままうっちゃっておいた。

■ 縄文人は想像力が非常に豊かだったので、空想上の太刀を彫った。それが後になって中国で作られた太刀と瓜二つだった。

■ 是川に住んでいた後の時代の人(弥生時代か古墳時代の)が悪戯心で縄文時代晩期の地層まで穴を掘って木彫りの太刀を埋めた。

■ 縄文晩期には既に鉄器文化があり、太刀さえ作れる高度な技術を持っていた。木刀はそのレプリカ。

■ 単なる、何かの間違い。

 

 ある人から、こんな話を聞いた。

 八戸周辺にはかつてから縄文時代の遺跡が数多くあったのだが、注目されることなく埋められたのだそうだ。ところが、三内丸山遺跡が見つかり世界から注目され始めると、周辺の遺跡にも光が当てられ、再度発掘作業が行われた――。

 日高見国には、現在でも眠ったままの、誰かが呼び起こしてくれるのをひっそりと待つ、貴重極まりない遺跡があるのかもしれない。

(了)