( 寺って何? 7 )2013年04月06日

明治26年当時の町田市真光寺、広袴付近の地図


 再び通りへ出て真光寺目指して進むと、やがて交差点にさしかかる。古地図(明治26年)で見ると「赤儘橋」とあるところがそこだ(と思う)。セキジンバシとは読まないだろうから、アカママバシ、アカマバシ…どういう意味だろうか。古地図を見ると、この橋の下を川が流れている。「矢崎川」と書かれているが、現在は真光寺川と呼ばれている。『町田市史−上巻 近世編』(町田市)には、「〜村内に神奈川街道が走り、真光寺川(明治10年代には矢崎川と呼ばれていたらしい〜)」とある。70代後半になるOGIMARUの親父も、かつては矢崎川と呼ばれていたことを知っていた。この小川の下流(鶴見川に合流する少し手前)には矢崎橋という橋があった。現在の、鶴川交差点の近くにあたる。

 真光寺川は、かつてはうねうねとくねった川で(現在は河川整備により、ひたすら真っ直ぐの、面白みのない川になりはてている)、OGIMARUの家の近くには高さ5メートルぐらいの立派な堰があった。下から見下ろすと、水が堰から勢いよく落ちてきて、なかなかな風景だったことを記憶している。写真に撮っておけばよかったが数十年前の話、当時のOGIMARUはザリガニたちに夢中の洟垂れ小僧だったので、目の前の景色の大切さなど微塵も感じなかったのだ。

 川底は、不思議なことに上流をどこまで遡っても砂が堆積していた。古地図中の「砂採場」とある地名がそれを物語っている。昔の人は砂を採って何に使ったのか。もしかして、砂鉄が採れたのかも。しかし、付近にはそれを物語る地名も製鉄関連の遺跡も出土していないので、それは違うようだ。ちなみに現在、広袴から真光寺の赤儘橋辺りまで、この川は区画整備と市街化によって地下に潜っていて(暗渠化)、川の痕跡さえない。

 さて、古地図を見ると赤儘橋の左斜め下方向に道の通じているのが分かる。現在も、大蔵町へ向かう広い通りだ。そこを少し歩くと細い、鍵型の小道が「寺山」方向に通っているのが分かると思う。急激な上り坂で、歩くのは結構しんどい。それでもズンズン歩いて行くと、やがて小さな児童公園が見えてくる。申し訳程度のホントに小さな公園の名前は「かん塚児童公園」。

 真光寺の地誌をまとめた本があって、その中にこの「かん塚」のことが書かれている。意味は不明だとある。公園の背後は林で、小道が左右に通っている。古地図上の小道だと思う。それを辿っていくと、地元の方のものと思われる大きなお墓が見えてくる。


かん塚の椎の木。迫力のある、でっかい木だ。


 そしてそのすぐそばには、もの凄く大きな椎の木がデンと構えている。樹齢何百年か、それとももっとか。しめ縄が張り巡らされているかも、と思ったが、それはなかった。公園の周囲は、きれいな住宅が建ち並んでいる。この当たりを宅地整備した際、かん塚という不思議な地名があったことを、地元の方が公園の名前に託したのかも知れない。

 地図を見ると小道は「寺山」に向かっている。ところが! OGIMARUの眼前には寺山はなかった。そこにあったのは…。



( 寺って何? 8 )2013年04月13日

明治15年


 地図は明治15年に帝国陸軍が作成したもので、その一部を拡大した(川崎市立麻生図書館所蔵)。地図には「神奈川県武蔵国多摩郡〜」とあるから、当時は神奈川県に属していたことが分かる。現物は彩色されていてとても見やすいが、複写はモノクロしか許されないので、残念なところだ。どうしてカラーはだめなのか、理解に苦しむ。

 前回の謎の塚(古墳址?)である「カン塚」は、「寺山」と記した丘陵の黄色のマル印付近にあたる。木立の間からは遠くの方まで見渡せるが、西方向は特に視界が広がっている。宅地開発で山が大きく削り取られたからだ。遙か下は平地になっていて現在は乗馬クラブの敷地。古地図を見る限り、小道沿いにあったカン塚は丘陵の頂上へさしかかるちょい手前に位置している。頂上平地付近には何があったのか。あ〜、明治初期に、少なくとも宅地開発が始まる前にタイムスリップしてみたい。

 さて、小道沿いにぐんぐん歩く、というか丘陵を駆け下りると、先ほどの乗馬クラブの前に出る。右に折れ、車一台がやっと通れる道を下っていくと、地図にある「観泉寺」というお寺さんが見えてくる。立派なお寺さんだ。村誌によれば明治初頭、当村に「励精学校」という学校が作られた。村の人たちがお金を出し合って、作ったのに違いない。新しい時代へ向けて、子どもたちよしっかり勉強して立派な世の中をつくってくれよ—そんな思いが伝わる学校名だ。地図中、赤枠内右上方の「学校」と書かれたところだが、村誌ではやがて近くの寺内に移設されたとあり、それがこのお寺のことだろう。


飯守神社。鳥居の下からは、古墳時代の祭祀用道具が出土。左奥の大樹が圧倒的な歴史を感じさせる。


 お寺さんをやり過ごして程なく行くと、「飯盛神社」前の小道へ。ちなみに、本当は飯守神社。地図に間違えて打って文字を載せてしまった。でも、単なる間違えでもない。というのも、かつてはこの神社の呼称は飯盛神社だったから。この神社のことをDBに保存する際、飯盛神社と単語登録してしまったのだった。間抜け。

 由緒書きには慶安3年(1650)に先ほどの観泉寺などによって遷宮されたとある。が、この神社、かなり古い歴史を持つ。昭和になって鳥居を改築する際、その柱付近から古墳時代のモノと思われる遺物が見つかった。専門家の調査によって、祭祀の道具だったことが分かっている。遙か昔から、ここは神域であったのだ。神社につきもののシーサー、いや狛犬のカップルはなかった。けっこう大きな拝殿と本殿で、背後には急勾配の小山が控えている。神社右後方には小さな祠があり、由緒書きにある「武蔵大神社」だろうか。地図中にも社が二つある。他にも、庚申塚や稲荷社などもましまして、不思議な空間だ。

 

 ところで、この地域には地名にもなっている「真光寺」というお寺はない。村の言い伝えでは、先ほどの観泉寺が元真光寺だったのだとか、大久保遺跡(前回の地図参照)あたりにあったとか、明治の地名で見られる清竜寺(同)がそれだったのだとか、さらには昔、真光池という、夜になると光る池があったことにちなむなどいろいろあるが、今ひとつしっくりこない。

 現在、あっちこっちの図書館などを渡り歩いて、その由来を突き止めたいと思っているが、なかなか道は険しそうだ。



( 寺って何? 9 )2013年04月15日

町田市真光寺の紅垂れ


 久しぶりに、地名辞典の旅を再開。まずは【新潟県】。

 津南町上郷寺石はかつて寺石村。村内にある曹洞宗吉祥寺の言い伝えによれば、「元寺屋敷」と称する地があり、ある夜、後丘が崩壊し、そこの池沼が埋没。その中央に上面平滑で6畳を敷き得る巨石が出現したという。それにより寺石との地名が付いた。全国には寺屋敷と称する地名が多く分散している。それらを見ると、~屋敷とは、そこに建物があったのではなく、小字ほどの広さはないものの、それなりの面積をもった特定の区域のことを言うようだ。当寺屋敷も、吉祥寺が占有した屋敷跡ではなさそうで、巨大石の話があることから祭祀関連の場所だったことがうかがえると思う。巨石信仰と関連するのか、どうか。風葬用の舞台、というのは過ぎる空想か。

 OGIMARUが幼少の砌の頃。母の疎開先が栃木にあって、そこを家族で訪ねたことがあった。疎開先の親戚の家からほど近いところにテニス場を一回り小さくした台地があって、大伯父の話だと、昔、そこに亡くなった人を安置した(風葬)のだという。すぐそばに大きな紅枝垂れ桜が一本、見事に咲き誇っていたが、怖くて近寄れなかったのを今、思い出した。

 長岡市鷺巣町(元・村)。集落の上の崖上の森林を「寺辺(てらべ)長者が原」という。唐櫃石があった。隣村釜沢(かまざわ)の観音堂棟札に記されている「漆千杯朱千杯」は、この石の下に埋蔵されていると伝わる。この石から5町隔てて水昌(水晶)石があるというが、どういう場所にどういう形で「ある」のかは記されていない。惜しいところだ。

 ちなみに「唐櫃石」でググってみると、長野県岡谷市指定文化財『横穴式円墳 唐櫃石(かろうといし)古墳』がヒットする。横穴式の古墳(古墳時代終末期)。画像を見ると、周りを石で固めた築山状で、形状は沖縄の亀甲墓(きっこうぼ)に似ていなくもない。長岡市の寺辺長者が原もそのようなものなのか。ここも祭祀に関わる場所だったことが想像できる。

 富山、石川を飛ばして【福井県】。現・小浜市太良庄(たらのしょう)の北側谷間を「寺谷」という。「太良」もテラと通じるものがある気がする。この谷はかつては寺院があったと伝わるかなり広い谷間で、古墳の密集地で径20メートルを最大とする12基がある。谷入り口の同規模の円墳2基を仁王塚と呼ぶとのこと。古墳の中には周庭を持つものもあり、石室の露出も見られる。6世紀頃のものとのことだ。

 山梨県】は現・春日居町鎮目の「寺の前古墳」。当地域内の大蔵経寺(だいぞうきょうじ)山の南東斜面の山裾、標高280メートル付近に立地している。円墳と考えられるが、開墾で消滅してしまったそうだ。古墳の所在した場所には幾つかの巨石が見られ、かつて横穴式石室の存在したことを示している。副葬品の中には、仏教用具とみられる銅鋺が特筆されるとのこと。6世紀末のモノらしい。

( 寺って何? 10 )2013年04月16日

 次は【長野県】の辺良(てら)郷。遺跡等があったわけではないが、字が面白いので掲載した。同郷について地名辞書は…『和名抄』(※)高山寺本には「辺良」、流布本には「弖」と記し、ともに訓を欠いているが「てら」と読むのが定説である…とある。テラなる言葉が寺をてらと訓む以前からあったことが窺えると思うのだが、どうだろうか。(※『和名類聚抄』のこと。平安時代中期の辞書)

 同じような例が伊那市大字手良沢岡「下手良」。文明2年(1470)の『伊那廻湛日記』には下寺と見えるという。ところが天正19年(1591)の『信州伊奈青表紙之縄帳』では「下手良」とある。ここから、この地が元寺関係のモノがあったからテラと呼ぶのではなかったことが分かると思う。

 岐阜、静岡、愛知、三重と飛ばして古都【京都】。亀岡市曽我部町寺に「寺村火葬場」。竜ケ尾山の山麓にあって、造園開墾中に見つかったのだそうだ。大地の地山を掘った周囲に小石を積み、その中に灰が詰まっていたとのことだ。その中央部には蔵骨器を直接納め、容器の口を石で封じ、土を盛った跡が。焼骨はほとんどが細かく砕かれていたが(何故だ)、頭骨が主で、かなりな高熱で火葬されていたことが分かっている。「比較的丁重に葬られていることから、平安末期の火葬場と考えられている」とのことだ。平安末期には火葬は一般的だったのか-またもや不学を恥じる。でも、燃料は何だろうか。

 大阪府を飛ばして【奈良県】。川上村大字「寺尾」には「集落の街道端に、先年まで大石があり、傍らに御首載(おくびのせ)石の標柱があった。長禄年間、赤松氏の遺臣が後南朝北山宮の首を持って逃げる途中、対岸の塩谷村で待機していた侍が弓でそれを射止め、首を奪い返し、その大石に載せたとの言い伝えがある」。長禄は1400年代中期。石に首を乗せてどうしたのだろうか。

 中国四国を眼下にやり過ごし、一気に火の国・九州へ。実は奈良より先、気になった地名が見当たらず腐っていた時、ひょんなことが頭に浮かんだのだった。「洞(ほら)」の存在だ。寺と洞は相通じるものがあるのではないか。沖縄のテラは正にホラではないか、よ~し、気を取り直して頑張ってみよう、と探していたら【高知県】江ノ口村内に「洞ケ島」を発見。ほらがしま、と訓む。古くは海潮の浸す地であったからという。洞穴はなにも海と交わらなくてもいいと思うのだが、何かが何処かの段階で抜け落ちたのだろうか。

 佐賀県】にもあった。佐賀郡は富士町大字関屋に「法良貝(ぼらん)」の地名。縄文式土器や石鏃、石斧等が出土しているが、古墳時代の遺跡はない。ホラ貝を鳴らして山内に急を告げた場所、というのが地名の由来らしい。

 鹿児島県】奄美諸島の笠利町はかつて「平村」だった。タイラムラではなく、テラムラ。平家ゆかりの地と伝わり、テェラ、テリャとも発音したらしい。

  *   *   *

 フウ~。途中、飽きた時もあったけれど、取り敢えず内地の突端までやってきた。丁寧に調べればもっと出てくるかもしれないが、なにしろ飽きっぽい性格なので仕方がない(と自分を慰める)。

 次からはいよいよウチナ~へ。5月、かの島を訪れる予定なので、格好の予習となるかも。さて結果や如何に…。



( 寺って何? 11 )2013年04月16日

 沖縄県】。思っていた通り、寺で始まる地名は皆無に等しかった。しかし、これで引き下がるわけにはいかない。ここは大好きな沖縄に敬意を表し、地名中に「寺」があり、テラと訓む所を探すことに。小さな索引文字から該当地名を探すのは正直言って辛い。今度は天眼鏡を鞄に入れておこうと思う。ちなみに天眼鏡とは虫眼鏡のことだ。

 中城安生に「安里ノ寺」。周辺には寺院はなく、霊石に関する言い伝えがあった。霊石と寺がどういう関係にあるのか、それは追々分かる。

 中頭村には「照屋ノ嶽(うたき)」。当村のマス島袋という人の祖先が霊石を村の上にある洞上に安置したのが始まりという。中頭は「なかがみ」と訓む。国頭村はくにがみそん。

 その国頭村伊江村には「千人洞」がある。ニャーティガマと読むのだそうだ。ガマとは洞穴のこと。沖縄戦の際、多くの人が戦火を逃れてガマに逃げ込んだ。伊江島の南海岸の洞穴は、古くから信仰の対象だったようで、特に子宝に恵まれない女性が祈願に来たという。

 中城村には「津覇ノ寺(チファノテラ)」。当地にあった神社をこう呼んでいたという。神社を寺と呼んでいるような言い伝えの類例はこれが初めてだ。集落中の林の中に祠があり、中に8個の石が祀ってあったのだという。子のない夫婦がその傍らで一夜明かすと子が授かったのだとか。

 宮古島の多良間村には、「寺山」と呼ばれる築山があった。高さ5メートル、直径4メートル。地元の人は「トゥンバラ」と呼んでいた。

 「渡口のテラ」は北中城村にある。とぐちのてらと訓む。海岸に近い場所に石造りの祠があって、ワヌマヌティラ、ハマサチヌティラ、テラモーメーとも。昔、泊大屋子という人がいて、浜に流れ着いた頭が丸く妊婦のような形をした石を安置したのが始まりと伝わる。石は流れてはこないだろうと思うが、子宝の神様として、今も地元の女性たちが訪れる。

 粟島村西には「洞寺(どうでら)」。石灰岩台地のすりばち状のくぼ地(ドリーネ)に僧の頭首が厨子に安置されてあるとのこと。伝承では、那覇の住職がこの島に来てこの洞穴で修業を積んだとのことだ。

 石川市嘉手苅地内に「テラガマ」の地名がある。メーヌガマ、ナカヌガマ、クシヌガマの3カ所ある。前の洞、中の洞、後ろの洞の意だ。メーヌガマの入り口には祠があって、今帰仁(なきじん)城主の遺児が隠れたという伝説が伝わる。石川と今帰仁は結構距離がある。全くの余談ながら、石川は以前イシチャーと訓んでいた。沖縄戦終結後間もなく、ここにはイシチャー民間人収容所が設けられ、実に多くの人たちが苦難の生活を送ったのだという。

 本島南部の糸満市真壁には「真壁のティラ」。集落の背後の丘陵はティラヤマ。霊石が飛んできたという伝承が残っている。隕石か? そういえば、内地のどこの地だかは忘れたが、かつて隕石が落っこちたという遺跡があったような気がする。こっちは本物の隕石だったらしくて、その時はものすごい轟音がしたのだと伝わっている。

  *   *   *

 沖縄の例を総じるに(というほど収集したわけではないが)、テラは石と関わりがあり、子の授かりに深く関係しているのが分かる。仲松氏の指摘したことは、死者を安置した場所がテラ(寺)であったが、それがなぜ安産祈願に繋がって伝わっているのだろうか。昔、産所が海の近くに臨時で設けられたことと何か関係するのかもしれない(谷川健一『日本人の魂のゆくえ』、2012年)。

 死者が行くところと、子どもがやってくるところ。それは海の向こうであったと沖縄の人たちは信じていた。テラは、あの世とこの世を繋ぐ、大切な聖地だったのかもしれない。